君津寛衆堂医院・内科・耳鼻咽喉科 南子安,君津,君津市, 耳鼻咽喉科,内科

院長コラム

コラム

  

賜姓源氏

NHKのドラマ「鎌倉殿の13人」で源氏に興味を持たれた方も多いであろう。

源姓は平安初期の嵯峨天皇が下賜されたことに始まる。

いつの時代でもそうだが、皇族も人数が多くなってくると生活費や警備の面でも国家の負担が大きくなる。

それで皇籍を離れて一般人(臣下)となるお方が出てくる。

それお臣籍降下といい、日本の天皇家の場合には姓がないのでその際に姓が下賜される。

これが賜姓である。

さて、嵯峨天皇には30人のお妃と19人の皇子がおられたので多くの皇子が臣籍降下をされる必要があった。

三筆の一人といわれた天皇は書の名人でもあったが、漢文もスラスラと読めるその時代きってのインテリの一人でもあった。

(単に字がうまいだけでは三筆には選ばれないのであった。当時の文化人の必須教養であった漢籍にたけているのが条件でもあった。ちなみに他の二人は空海と橘逸勢である。)

天皇なので、当時中国から輸入された書物を最もよく読めるお立場でもあった。

ある時に、天皇が中国の史書のひとつである「魏書」(魏の正史)を読まれていて、そのくだりに眼を止められた。(この魏は三国志の魏ではない。区別して北魏や後魏とも呼ばれる。)

それにはこうあった。

414年に西泰が南涼を滅ぼすと南涼の河西王の子の禿賀が魏に亡命してきた。

魏の皇帝と禿賀は元々同じ一族であった。(魏の皇室の姓は垢跋氏である)

禿賀は偉容の外見に加えて、堂々たる立ち居振る舞いを身につけていた。

魏の太武帝は賀を引見されてその機智に富んだ言を高く評価された上で西平侯を賜爵し、さらに龍驤将軍の号を加えられた。

そして「卿(貴方)」と朕(私)は源(ツール)を同じくしており、姓が分かれた歴史がある。

いま源氏と名乗ることを許可する」と賜姓されたというのである。

これが賜姓源氏の始まりで、以後は室町時代の正親町天皇まで実に二十一流の源氏が誕生したのである。

二十一流の各々の源氏は出た天皇の名をとって、たとえば嵯峨天皇からでれば嵯峨源氏と呼ばれる。

嵯峨源氏で最も高位に昇ったのは左大臣源融であるが、今日で有名なのは渡辺綱であろう。

(綱の子孫の男子は今日でも下の名前は1字である。)

今日に私たちは源頼朝といえば誰もが典型的な日本人の名前と信じて疑わないが、源姓は平安時代には当時の先進国であった中国の人の格好いい名前、つまりキラキラネームなのである。

あまた多くの源氏のなかで子孫が最も活躍したのがいわゆる清和源氏(源頼朝・義経兄弟、源(木曽)義仲、源為朝、源頼政、多田、土岐、明智、新田、里見、山名、足利、吉良、今川、細川、斯波、竹田、小笠原、佐竹、南部など)であるが実は清和天皇から出たのではないという説もある。

それについては、また別に稿をあらためたいと思う。

20221215日 これを記す

金光 敏和

隣のニーナ

僕は1975年の夏から1976年の春までアメリカで暮らしていた。
中西部・ミシガン州のアンアーバーという小さな街で英語を勉強していたのだ。
アンアーバーにはミシガン大学という総合大学があり、僕は大学付属の英語学校に在籍していた。その学校は外国人がアメリカの大学院などに入学するのにふさわしい英語力をつけることを主目的に設立、運営されていた。世界中から集まっていた留学生達はそこで英語を勉強してTOEFL(トッフル)テストやMidhigan(ミシガン)テストなどで一定のスコアをとればアメリカの大学院などに入学が許可されるのであった。その学校では僕達日本人だけが英語力のブラッシュアップや言うなれば人生の洗濯を目的としてアメリカに来ていた。
それは大学院入学を目指している他の国の人達とは少し違うスタンスなのであった。

僕もその年の3月に日本の大学を卒業してはいたが、アメリカの大学院で勉強しようという気持ちはなかった。
そこでの生活を終えて日本に帰ったら、医科大学を受験しようと考えていたのだ。
だから英語力向上という目的はあったけれど、僕がアメリカに来たそれより大きな理由はその当時は圧倒的な超大国であったアメリカをこの眼で見たいという思いからなのであった。
世界を引っ張る蒸気機関車・アメリカという国を、アメリカ人を、その国に行って旅行者ではなく、実際に住んで肌で感じるのだ。
「何でも見てやろう」そんな気持ちだった。

英語学校の学生は正規なミシガン大生ではなかったが正規学生に準じた扱いを受けた。
大学の寮にも入れたし、キャフェテリアと呼ばれた学生食堂や設備の整った図書館も利用できた。
病気になれば全米トップレベルのミシガン大学の医学部や歯学部付属病院も学生健保を使えば無料で受診できたのだ。

僕は大学のメインキャンパスからかなり離れたベイツという大学院生の寮に住むことになった。
何しろミシガン大学のキャンパスはとても広くてどこまでが大学で、どこまでがアンアーバーの街なのか全く判別がつかない。
大学のメインキャンパスからベイツまでの15分くらいバスが走る敷地はすべてミシガン大学のキャンパスであろうかと思われた。
そして、そのような寮や大学の施設が広大なキャンパス内にいくつも点在していて、その間には大学が運営するバス網が張り巡らされていた。
(キャンパス内にはホテルや劇場はもちろんのこと、川が流れる公園やゴルフ場、11万人が収容できるフットボールスタディアムもあった。ちなみにアンアーバーの人口は11万人であったが・・・)

日本では考えられないが、僕が住んでいたベイツは男女混合の寮であった。
もちろん部屋は別だが若い男女がひとつ屋根の下で暮らすのである。
部屋は2人で1部屋を使うことになっていて、僕のルームメイトはジョー・レパックという大男の物理学専攻の大学院生だった。

彼はいつもベッドに這いつくばって物理の難しい問題に取り組んでいた。
日本人の留学生の中にはアメリカ人のルームメイトと気が合わなくて困っている者もいたが、僕はジョーとは上手くいっていた。
彼とはウマが合っていたのだ。

僕たちの隣の部屋は女子学生の部屋で、ニーナ・インペリアルというフィリピンから来た大学院生がアメリカ人のルームメイトと住んでいた。
フィリピンのかつての宗主国はスペインで、インペリアルという姓から判るようにニーナはスペイン人の血を濃くひいていた。
そのせいか、なかなかの色白で西洋人のような顔立ちの美しい人であった。
ニーナはフィリピンの大富豪の娘であった。
あとで聞いたところによれば、フィリピンにはインペリアル・エレクトリック・カンパニーという家電メーカーの上場企業がありニーナはそこの社主の一族らしかった。
そうでなくては当時のフィリピンからアメリカに留学することなんか出来なかったはずだ。
その頃のアメリカでの一年間の学費と生活費が邦貨にして約200万円だった。
フィリピンとアメリカの物価比は約1100倍だったから、ニーナは一年間に現地の通過換算で約2億円の仕送りを受けていたことになる。

さて、僕の学生生活は快適であった。
朝起きてバスでメインキャンパスに行き、クラスの授業を受け放課後には図書館で遅くまで勉強した。
食事はキャフェテリアでありとあらゆる料理をいくらでも、好きなだけ、バイキング形式で食べられた。
メインキャンパス内には設備の整った図書館がいくつもあって、その中のひとつは午前2時迄もオープンしていた。
そして、広大なキャンパス内では勉強を終えた学生達が寮に帰れるように夜遅くまで無料のバスが走り回っていた。

「学生をみればその国の国力が判る」というが、まさにそれは正しかった。
当時、世界第2位の経済大国といわれた日本ですらアメリカと比べると彼我には物質的にも余りに大きな差があった。
アメリカの三大自動車メーカー(GM・フォード・クライスラー)の業績が良くて、それが好調なアメリカ経済全体を引っ張っていた、そんな時代だった。

多くのアメリカの大学生は家で勉強をしないで放課後は図書館で勉強するのだった。
とにかく彼等は時間の使い方が上手かった。
平日は一生懸命勉強して週末は徹底的に遊ぶ。
金曜日の夜に図書館で勉強していると顔見知りのアメリカ人学生から「金曜日の夜だぜ」と言って本を取り上げられる。
学生達は週末にリフレッシュすると日曜日の朝は少し遅めに起きて軽い朝食を取り、昼にはもう図書館で本を開いていた。
日本では日曜日の昼下がりというのは立派な休日モードなのだから、僕はこれにはいたく感心した。

学ぶべき時は学び、遊ぶべき時は遊ぶ。
これが彼らのやり方だった。

大学のキャフェテリアは安価で豪華でボリュームもあり、かつ美味しくて何の不満もなかった。
それなのに秋も深まる頃に、僕はコワップ(COOP)で食事をするようになっていた。
コワップというのはアメリカの苦学生の自治寮で、入居者にはアメリカ人だけでなく世界中から来た留学生達もいた。
成功した卒業生の篤志家がキャンパス内に多くの学生が住める建物を寄付する。
それがコワップであった。
そこは安い家賃で住めて、決して御馳走ではないが安価でバランスの良い食事が供された。
その代り学生たちは何でも自分達でやるのである。
コワップでは月に一回集会が開かれ、そこで決まったことをリーダーの割り振りの元に、経理はもちろん屋根の修理、廊下やトイレや共同部分の清掃、そして料理や食後の皿洗いまで、当番を決めて自分達で分担して行うのである。

日本の大学にも寮があり、学生の自治が認められていた。
しかし日本の「大学寮の自治」は営繕の職員が修理した屋根の下に住み、賄いや掃除をするスタッフさん達の労働の基に成り立っていた。
何でもかんでも自分達でやらねばならぬアメリカ人の学生の「大学寮の自治」とは地に足のつき方が全く違っていたのだ。

僕は金銭的に苦労している訳ではなかったが「何でも見てやろう」と思っていたので、沢山のアメリカ人と友達になれるようにコワップでボーダー契約を結んだのだ。
ボーダー(Boarder)というのは食事(Board)をする人という意味であった。
コワップでボーダー契約を結ぶというのは、そこには住まないが食事だけ食べるということだった。
学生食堂より更に安い食費の代わりに労働が課せられ、僕は当番日には食後に皿洗いをやっていた。

大学からの帰りのバスで僕はニーナとよく一緒になっていた。
夜も更けて図書館を出てバス停でバスを待っているとニーナがやってくる。
帰り道は一緒だから自然と話すようになった。
そして、どういういきさつかはもう忘れたがニーナとディナーに行こうということになった。
部屋に帰りルームメイトのジョーにそのことを話すと、彼は「グッドラック」と言って僕の肩を軽く押した。

その意味もよく判らずに僕は当日を迎え、放課後にニーナと待ち合わせた。
僕はいつも夕食を食べているコワップにニーナを連れて行こうと思った。
コワップはボーダーでも夕食にゲストを招待できたからだ。
だからその時の僕にはディナー、つまり夕飯をそこで食べるのは当然の事だと思われた。
しかしながら、あとで考えるとニーナは初めて訪れたコワップの食堂で少し戸惑った顔をしていた。
なんで自分はこんな場違いの所にいるのだろう・・・とそう思ったのかも知れない。
でもそれはあくまでも今にして思うことであって、その時の僕はそんなことは気にもせず、ニーナと食事をしていつものように二人でバスに乗ってベイツに帰った。

部屋に帰るとジョーが「デートはどうだった?」「手ぐらいは握ったか?」「レストランはどこに行った?」と矢つぎ早に聞いてきた。
僕は「デートなんかじゃないよ。手なんか握ってないし、それにコワップで飯を食ったよ」と答えた。
するとジョーは「なにぃ!コワップだと・・・」と眼を剥いて、そう言ったきり絶句した。
そして次の瞬間、大きなお腹をゆすって笑って笑って笑い転げた。
涙がうっすらと眼ににじむほど笑い終えて、ジョーは一気にまくしたてた。
「お前は何という馬鹿野郎なんだ。いいか、この国(アメリカ)ではいい年をした男と女がレストランに行くということは、それは立派なデートなんだ」「それをお前は手を握らずに、しかもコワップに行った!だと。それじゃ何もかもブチ壊しじゃないか」「いいか!二度と女をコワップになんかに連れて行くなよ」
僕はそれを聞いて「ああ、そんなものなのか」とは思ったが、特に何か自分がミスをしたとは思わなかった。

しかし、大富豪のお嬢様をコワップにお連れしたせいかどうかは判らぬがニーナとはそれっきりになってしまった。
図書館の帰りにニーナとバスで乗り合わせて話すことはあったが、「また、レストランで食事をしよう」という話にはならなかった。

やがて年が明けて冬が過ぎて春になり、僕は日本に帰ることになった。
4月からは大学受験予備校で勉強して医学大学を目指すのだ。
僕はベイツを出てメインキャンパス内の安ホテルに宿泊して帰国の準備をしていた。
そしていよいよ明日は日本に帰るという日に、僕はニーナのルームメイトにキャンパスでばったり会った。
彼女は僕を見て駆け寄ってきて「聞いたわよ。日本に帰るんだってね」「それを知ってニーナがどうしても会いたいとあなたを探しているわよ」と言って部屋の電話番号を書いた紙切れを僕にくれた。
「必ずニーナに連絡してね」と彼女がそう言ったので、その夜に僕は何度もニーナの部屋に電話をしたが、結局電話はつながらなかった。
いつものように、夜遅くまで図書館で勉強していたのだろう。
スマホや携帯電話などない時代だった。

翌朝早く、僕は日本人の友達が運転する車でデトロイト空港に向かった。
朝霧に包まれたアンアーバーの街を車で走っていると、この街で過ごした日々のことが走馬灯のように僕の頭の中をよぎった。
アメリカやアメリカ人の優れたところは沢山見たが、また外から見た日本の良さもよく判った。
僕はこの街で確実にスケールアップしたのだ・・・とも思った。
そして僕がひとりいなくても、この街には今日も明日も今までと同じような日常があるのだろうと思うとそれが少し悔しかった。

僕は日本に帰り受験生活を経て医科大学入学を果たし、そして医者になった。
ニーナはあれからどうしたのだろうか?
いつもアメリカは大嫌いだと言っていたから、大学院を卒業してフィリピンに帰ったのだろうか?
そして、今は大富豪の奥様にでもおさまっているのだろうか・・・

2018年7月、これに記す。
T.Kanemitsu

ワイオミングの月

春4月というのに頬に当たる風が刺すように痛い。バス停から見るロッキーの山々の頂きはまだ冠雪していて、それが朝の光に眩しく輝いている。

アメリカ東海岸のニューヨークを出発した大陸横断バスは3日目の朝にワイオミング州のララミーに到着した。

かつて少年の日、私は毎週テレビで放映される西部劇「ララミー牧場」の大ファンだった。主人公のジェスやスリムの様に「大きくなったらアメリカに行ってカウボーイになろう」などとあらぬ事を考えていた。カウボーイになる夢は叶わなかったが、私は旅行者としてついにララミーの土を踏んだのだ。

ララミーはロッキーの山あいの人口2万4千人の小さな街である。街の名はこの地を最初に訪れた白人であるフランス人の毛皮商人ラ・ラミーに因んでいるという。ホテルに荷物を置いて、私はまず街のチャンバーオブコマース(観光案内所)へ行った。そこには1人の中年の男性がいて、私に「なぜ、お前はこんな山の中の小さな街に来たのか?」と尋ねた。

私は彼の後ろに飾ってある「ララミー牧場」のジェスとスリムの大きなパネルを指して「あれに憧れて来たのだ」と言った。すると彼は私がそう言うと思っていたとばかりに、ニヤリと笑いながら「はるばるとこの街に来るのは西部劇やカウボーイに憧れて来る奴ばかりだ」「年に数人は世界中からお前みたいな奴が来る。この前もアフリカから旅人が来たんだ」と言った。

街の歴史や幾つかの観光スポットを教えてくれた後、彼は私に言った。「仕事が終わったら、街の郊外を車で案内してやろう」。夕方5時過ぎに私は彼、すなわちR.M氏の運転する車に乗って、街はずれの草原で野生の馬や鹿の群れを見た。ドライブの後すすめられるままに彼の家に行き、そこで夫人手作りの夕食をご馳走になった。

食後のコーヒーを立てながら、夫人が窓の外を見て「満月が出ているよ」と言った。するとR.M氏は意外な事を言った。「私達アメリカ人は満月はあまり好きじゃないんだ」。そういえば西洋では狼男やドラキュラは満月の夜に出るし、英語の月を意味するルナ(Luna)から派生したルナティック(lunatic)という単語は「狂気じみた」という意味があるなと私は思った。

しかし満月は日本ではめでたい月である。名月を詠んだ数々の和歌や詩もある。私はR.M氏に本で読んだある空手家の話をした。その空手家は素手で石を割ろうとするのだが、いくら一生懸命やっても石は割れない。そこで山にこもって修行を積む事にした。幾日も幾日も血の滲む様な厳しい修練が続いたある夜、彼はまどろみの中でまぎれもなく素手で石が割れる音を聞いた。すぐに飛び起きて外に出て石を割ってみた。すると石は見事に素手で真っ二つに割れたというのだ。夜空を見あげるとそこには満月がこうこうと輝いていた。

こと程左様に日本人にとって満月はめでたい、大願成就の月なのである。

私の話をじっと聞いていたR.M氏は「月ひとつ取っても洋の東西では見方が変わって興味深い。これからは私も満月を好きになるよ」と言った。

憧れの街で見知らぬ人に親切にしてもらい、色々な話をして楽しい時を過ごした。ララミーに来て本当によかったと思った。長年にわたる私のララミーへの想いは満たされた。以前にも増してこの街は私の最も好きな街になった。

その後日本に帰って何年かはR.M氏と手紙のやり取りなどしていたが、いつしかそれも途絶えた。そうして20年が過ぎた。

昨年の夏、私は思い立ってアメリカに旅行に行く事にした。

行く先はララミーと同じワイオミング州にあるイエローストーン国立公園である。私はイエローストーンのホテルでR.M氏に連絡をとろうと考えた。しかし、もう住所も電話番号も判らない。

そこで私はララミーのチャンバーオブコマースにFAXを送ることにした。

番号はホテルで調べて判った。

「R.M様。覚えていますか?私は貴方に20年前に親切にしてもらった旅の日本人です。今私はコディにいるけれど、時間がなくてララミーまでは行けません。せめてお電話でお話したい・・・・」。夜になって、ホテルの部屋の電話が鳴った。R.M氏からだった。今はもうチャンバーオブコマースでは働いていないが、新しい勤務先にそこの人がFAXを届けてくれたという。「覚えている、覚えているとも。お前は大きな紺色の旅行カバンを持っていただろう」。私は「今回もそれをアメリカに連れて来たのだ」と言うと彼は声を高らかに笑った。「外を見ろよ」彼に促されて窓の外を見ると空には満月が輝いていた。「お前がしてくれた月の話も覚えているよ。あれから満月も好きになったよ」。そう言うと彼は再び高らかに笑った。私が20年前にした月の話を彼は覚えていてくれたのだ。そう思うと胸が熱くなった。国境や時空を越えて私たちは今ひとつのラインで繋がっているのだ。次にアメリカに来る時は必ずララミーに行くと約束して私は受話器を置いた。旅の楽しいのひとつは見知らぬ人との出会いにある。私はワイオミングの月を見ながらしみじみと思った。

1997年5月
T-KANEMITSU
(PS)2014年8月にわたしはララミーを訪れR.M氏と38年振りに再会しました。

 

宮中晩餐会

私の友人のA氏は日本人でありながら、東南アジア某国の政府要人である。
彼は福岡にある某国総領事館の名誉総領事を務めている。

ある時、その某国大統領が国賓来日されることになった。
毎年たくさんの外国の王族や首脳が来日されるが、国賓来日は年に二組と決まっている。
そして国賓来日には必ず天皇主催の宮中晩餐会が開かれる。
それでA氏も某国側の一員として晩餐会に招かれることになった。
某国の民族はマレー人だが政治や経済を牛耳っているのは華僑である。
だから日本人のA氏は華僑の某国首脳陣の中にあっても顔立ちに違和感はない。

さて晩餐会当日になった。
皇居・豊明殿の入口には金屏風がしつらえられ、その前には天皇と皇后両陛下がお立ちになり賓客をお迎えになる。
某国側は大統領を先頭に首相、外相、大使などと序列に従って一人一人が天皇と握手され豊明殿に入っていく。
それを見てA氏はこれは困ったことになったと思ったそうである。
それというのも、果たして天皇が日本人である自分と握手されていいものかと思ったからである。
そして長く感じられたようで短い時間があっという間に過ぎて、いよいよA氏の番になった。
A氏が前に進みかけると、天皇が握手をなさる為に少しずつ右手をお挙げになりだした。
その時お付の人が何か天皇に耳うち申し上げた。
おそらく「この人は日本人でございます」と申し上げられたのであろう。
すると今度は天皇がお挙げになりかけた右手を少しずつお下げになりだした。
それを見てA氏は安堵して、天皇に深々とお辞儀をして豊明殿に入ったそうである。

宮中晩餐会の料理はフランス料理と決まっていて、その時のメインは羊の肉料理だったそうである。
羊が好まれて使われるのはビーフやポークと違い宗教上の制約がないからだろう。
料理の味付けとボリュームは天皇のお年にお合わせになったものであったという。
お酒は超高級の日本酒が何本も冷やされてテーブルの上に置かれていたが、ラベルはすべて剥がされていたという。
これはもちろん特定のメーカーが喧伝されないためである。
何事もそれを体験した人しか判らない興味深い話は存在するのである。

  平成27年 1月、これを記す
  寛衆堂医院・金光 敏和

王の定義

私の医院のスタッフ達は御多聞に漏れず「朝鮮半島歴史ドラマ」にはまりきっている。彼女達が揃って私に「皇帝と王はどちらが偉いんですか?」と馬鹿な質問をするので、今回はそれをテーマに物語を書くことにした。

古代中国で生まれた漢字で王という字は上の横棒が天を表わし、下の横棒が地を表わす。そして真中の十字は人を表わす。つまり古代中国では王とうは天の意志を地上の人民につたえる人民の代表者であり、この世(宇宙)で一番偉い人であった。その頃、中国を中心とした古代東アジア社会ではヨーロッパや中東などは眼中になかった。だから王はこの世で、この宇宙で一番偉い人だったのである。しかし王の定義は時代や場所とともに変わった。中国・周の末期の戦国時代になると中国各地に列強が乱立して、各々の国のトップが王を称した。王はこの世に一人ではなくなったのである。そしてその戦国を統一した秦王・政は帝を称し、始皇帝と名乗った。この時、王は皇帝の下で中国の地方各地を治める者となった。つまり王はこの世で一番偉い人ではなくなったのである。この世で一番偉いのは皇帝となった。

秦に続いて漢帝国が成立した頃になると日本や朝鮮半島は中国の支配下にはいった。(日本は朝貢という形で支配下にはいったが実質支配ではなかった)朝鮮半島では清朝末の1800年代中途まで中国による支配が続いた。従って朝鮮半島という中国世界における一つの地方を治めた代表者が朝鮮王である。だから朝鮮半島には帝は存在しないのであった。それゆえ、帝がいない朝鮮半島歴史ドラマではトップは王なのである。倭王・武などの倭の五王(大王)が治めていたのはこの時代である。

その後、地理的にも中国支配が及ばなかった日本では大王はやがて天皇と呼ばれることになる。そもそも天皇とは道教における神仙的な存在であった。日本で皇帝と称しなかったのは天皇は皇帝よりもさらに神格化としたものとも言えるし、あるいは中国皇帝に対して少しはばかったのかも知れない。日本では天皇が帝となり、この時日本は名実ともに中国のくびきを断ち切ったのである。つまり日本を中心としたこの世で、その空の下で一番偉い人は天皇となった。

日本でも帝である天皇の下で王は帝に次ぐ存在となった。今でも中国や朝鮮半島では日本の天皇を日皇と呼んでいる。これは日本国王と呼んだのでは(中国の支配下にはない)日本に対して失礼になるし、かといって中国や朝鮮半島は日本の支配下にある訳ではないので天皇(帝)と呼ぶ訳にはいかない。そこで「日本人だけが皇帝と自称する帝・天皇」を日皇と呼ぶのが彼等の絶妙の落とし所となったのである。

さて王であるが、日本では奈良時代になると皇族の男子に王号が許された。その頃は天皇家から分かれて七代目までが皇族であったので、そこまでの男子が王であった。

平安時代初期になると皇族が増えすぎてその生活費や警備費用が国家財政を圧迫した。そこで桓武天皇の時代にはいちどきに100人以上の皇族が臣籍に降下して一般人となった。またその頃には親王や内親王という概念が中国からはいってきた。親王とは天皇家に生まれた男子であった。女子は内親王である。そうなると平安時代以降は親王家に生まれた男子が王となり、女子は女王となった。しかしながら平安時代以降、天皇家に生まれた男子や女子は全て親王か内親王に立てられたかというとそうではなく、生母の出自が良い人だけが親王や内親王に立てられた。具体的には外祖父が中央官庁の大臣クラスだと新王や内親王に立てられ、それ以下の皇子・皇女は天皇の直子でありながら、いきなり臣籍降下して一般人となった。
それ以下といっても外祖父が地方の国司(今でいえば県知事クラス)であってもいきなり一般人となったのである。たとえば平安中期の清和天皇には一九人の皇子・皇女がいたが親王には六人、内親王には二人が立てられ残りは直子でありながら一般人となったのである。

ともあれ日本では平安時代以降は王とは新王家に生まれた男子を指すようになったのである。(現在は三笠宮寛仁殿下は大正天皇の孫であっても新王号を名乗られている。この様に新王や王の定義は時代や場所とともに変わる)またヨーロッパや中東社会ではどうかというと皇帝や王は各々の国のトップであり、呼び名がちがうだけで全く同格である。つまり皇帝や王は各々の国々が持つその世界で、その空の下で一番偉い人である。だからロシア皇帝とフランス国王は全く同格であった。従ってイギリスのエリザベス女王と日本の三笠宮寛仁家に生まれた女宮様(つまり女王)はおなじ女王でもありかたが全く異なるのである。
 

  平成26年 7月15日
  寛衆堂医院・金光 敏和

 

続き 今年のNHK大河ドラマの主人公は黒田官兵衛なので、それに因んだ。

ある時、織田方の武将:荒木村重が敵対する毛利方に寝返ったので、村重と昵懇だった官兵衛は彼を諭すべく村重の城にいったが、逆に牢に閉じ込められてしまった。
荒木村重の牢に閉じ込められた官兵衛は、その折の命の恩人である加藤重成の次男を養子にした。それが後の黒田三佐衛門・一成である。一成は黒田本家の重鎮として活躍した。
官兵衛の子の長政は父に比べて人望が薄く、孫の忠之はさらに人望がなかった。一成はそんな二人をよく補佐した。
島原の乱では黒田藩士は三代忠之の命令には従わずに一成の下知で戦った。
一成は後に三奈木黒田藩(福岡黒田藩の藩内支藩)一万六千石の藩主となり子孫は明治まで続く。
私の曾祖母・金光(黒田)八重はその最後の三奈木黒田藩主の娘である。

平成26年 4月14日
寛衆堂医院・金光 敏和
 

今年のNHK大河ドラマの主人公は黒田官兵衛なので、それに因んだ。

黒田氏は近江源氏・佐々木氏の支流である。宇多天皇の皇孫が源姓を賜り臣籍降下した。子孫が近江国の蒲生郡・佐々木の荘に土着して武士団の棟梁となり佐々木氏を称した。
これが近江源氏・佐々木氏の始まりである。(源氏には十八流あるが、宇多源氏は後世に子孫が最も栄えた清和源氏とは別流である)
佐々木氏は鎌倉・室町幕府の創立に功績があり、室町初期の佐々木道誉の頃には近江と出雲を統治する大・大名となった。(出雲はその後、佐々木一族の守護代・尼子氏に乗っとられる。尼子氏の支流からは山中鹿之介やその子孫の豪商・鴻池氏、明治時代の陸軍大将・乃木希典などが出た)佐々木氏の一族は分家しながら近江国内にそれぞれ所領を相続したが、黒田氏の先祖は近江国の伊香郡・黒田の庄(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)を領地とし黒田姓を名乗った。
その頃、本宗の佐々木氏は京極氏と六角氏に分裂していた。黒田家は京極氏の分家ながら六角氏属し、その部将を務める家であった。しかしながら官兵衛の曽祖父の高政の時に不都合があり、近江を追われ備前国・福岡に住み着いたのである。後の福岡・黒田藩の名称はそれに由来する。そして福岡も新興の浦上氏に追われ、播磨の国・姫路の御着に住み着いた。
高政が佐々木・六角氏を追放されたのは、ある時の戦で軍律違反の「先がけ」をしたのが原因で、それをとがめられたのである。
さて黒田家には冷珠膏という家伝の目薬があった。
ある時、官兵衛の祖父の重隆は姫路の広峰神社の神官と知り合いになり、霊験あらたかな神社のお礼を配る時に一緒に目薬を売り出すことにした。これが大いに売れて、黒田家の門前市をなす盛況だったという。この目薬販売で得た財力で土地を買い、人を養い、そして黒田氏は再び力を貯えていく。
官兵衛の頃、播州の小土豪となっていた黒田氏は、やがて東からやってきた羽柴(豊臣)秀吉を通じて織田信長につくことになる。官兵衛はその後、名参謀として秀吉の天下取りを補佐するのである。
これが黒田官兵衛の立身の始まりである。

平成26年 1月1日
寛衆堂医院・金光 敏和
 

戊辰戦争の跡を訪ねて

 戊辰戦争の跡を訪ねて

平成25年(2013年)の6月に会津若松を旅行し鶴ヶ島や飯盛山を訪れた。
戊辰戦争の激戦の地である。
初夏の青い空の下に広がる会津若松の地に立ってみると、今は平和なこの町で145年前に多くの犠牲者を出した大規模な戦争が行われた事が嘘の様でもあった。
幕末の慶応4年(1868年)1月4日、薩摩・長州を主体とした討幕軍は京都の南郊外で徳川
将軍家・会津藩・桑名藩を主力とした幕府軍と戦った。
鳥羽・伏見の戦いである。
数の上では優勢であった幕府軍は薩・長が西洋から輸入した新型銃や大砲の前になすすべもなく、また伊賀・藤堂藩の寝返り(注・1)などもあって、一敗地にまみれてしまった。
同1月6日、将軍・徳川慶喜は会津藩主・松平容保等と共に大阪から軍艦に乗って江戸に逃げ帰り恭順の意を表した。
リーダーを失った幕府軍は互解し、薩・長軍はこの勝利によって新政府軍・官軍となった。新政府軍は勢いに乗って東上し、慶応4年4月11日ついに江戸城の無血開城を成し遂げた。
ここに300年続いた徳川幕府は終焉したのである。
藩士と共に会津に帰藩していた松平容保は家督を養子に譲り、徳川将軍家に習い謹慎したのだが実権は手放さず、武装解除もしなかった。
その一方で会津藩は何度も赦免を嘆願したが聞き入られなかった。
京都守護職として倒幕運動を取り締まった会津藩主・松平容保や会津藩士、それに会津藩お抱えの新撰組などに対する薩・長の憎しみは根深いものがあった。
徳川将軍家が無抵抗で降伏したので、新政府軍もなんとしても会津を討たねばおさまりがつかなかったのである。
しかし、恭順した会津藩をそれでも討伐するという新政府軍の横暴に対して、会津に同情した奥羽・越の列藩31藩や木更津請西藩などが同盟して、ここに奥羽・越列藩同盟が形成された。
さらには新撰組の残党や新政府に不満を持った各地の武士や浪士が会津に集結した。
そうして幕末最後の戦いである戊辰戦争が勃発したのである。
これに先立ち会津藩は従来の長沼流軍学を改め、新しく藩士を編成し直した。
軍制改革である。
約8000人の藩士達は50才以上の玄武隊、36才~49才の青龍隊、18才~35才の朱雀隊、そして16・17才の白虎隊などに編成されたのである。
この編成は言うまでもなく古代中国で四方を守る伝説の霊獣とされた四神にちなんだものである。(白虎だけは実在する)
その四隊は上士、中士、下士などの身分によってさらに細分された。

ちなみに四神は玄武が北、青龍が東、朱雀が南、白虎が西を守るとされ、各々にイメージする季節とカラー(色)がある。
すなわち北は冬で黒、東は春で青、南は夏で朱(赤)、そして西は秋で白である。
今日の私達は玄冬、青春、朱夏、白秋などと日常でその言葉を使っている。(注・2)
このうち戊辰戦争の悲劇を象徴する白虎隊は約350人の少年たちで編成され親の身分により5隊に分けられた。
1番隊は親の身分が最も高く、5番隊は足軽の子第であった。
飯盛山で自刃した白虎隊はそのうち市中2番隊で、上士の子弟たちであった。
戸の口原の戦場に出陣した白虎隊・市中2番隊士は当初40人だった。
しかし戦闘で命を落としたり、途中で仲間とはぐれた者もいて戦場から飯盛山にたどり着いた時には20人になっていた。
慶応4年8月23日の朝のことである。
彼等がそこで見たのは炎に包まれる鶴ヶ城と会津の城下であった。
「鶴ヶ城が落城して炎上している」と彼等はそう思ったのである。
城が落ちたのならば、もはやこれまでと飯盛山で19人が自刃したのである。
しかしながら実はこの炎は会津藩が敵の拠点とならぬように城の周りの民家を焼き払ったのであって、この時には鶴ヶ城はまだ落城していなかった。
鶴ヶ城はこの先も約1ヶ月持ちこたえるのである。
少年たちは早まったのであるが、まだ若き少年たちの心情と忠節は後の世の人々の心をうち白虎隊の悲劇は長く人々の間で語り継がれることとなった。
この時自刃した19人は今も飯盛山に祭られているのである。
隊士の中で1人だけ飯沼貞吉という少年が生き残った。
自刃したはずの手元が狂ったとも言われている。
貞吉は家老・西郷頼母の妻・千重子の甥であった。
そして彼が後に白虎隊の悲劇と奮戦の生き証人となったのである。
貞吉は戊辰戦争後に、一部の人から怯儒のそしりを受け会津に居ることが出来なくなった。
そして彼は会津を出て、2度と故郷に帰ることなく仙台で天寿を全うしたのである。
貞吉は生前の本人のたっての希望で、今は同じ飯盛山で19士と少し離れたところで静かに眠っている。そして仲間と共に今も会津を鎮護しているのである。
(飯盛山には戊辰戦争で命を落とした他の白虎隊士31名も19士とは別の場所で祭られていて、同じく会津を鎮護しているのである)
さて新政府軍は越後口、日光口、白河口の三方から会津に攻め入る作戦を立てた。
このうち日光口で会津藩家老・山川大蔵などの巧妙な指揮もあって新政府軍はこれを破ることが出来なかった。

しかし越後口と白河口はたやすく落ちてしまったのである。
白河口の戦いでは会津、仙台、棚倉藩からなる列藩同盟軍は4500人の兵力を有し、これに対して新政府軍は700人であった。
列藩同盟軍の指揮をとったのは会津藩筆頭家老・西郷頼母であった。
兵力は優勢だったにも関わらず、慶応4年5月1日の戦いで列藩同盟軍は惨敗を喫し白河城を失ってしまった。
新政府軍の銃や大砲などの装備が優れていたことは事実としても西郷頼母の指揮官としての無能も敗因のひとつであったのだろう。

数の上で圧倒的優位であったこの戦いに敗れたことにより列藩同盟の士気は著しく低下してしまった。
「新しい装備の新政府軍には勝てない」と諸般はそう思ったのである。
これが戊辰戦争の行方を決定づけてしまった。
新政府軍は6月に棚倉城、7月に磐城の平城、そして二本松城も落とした(注・3)
勢いに乗った新政府軍はついに慶応4年8月22日に会津国境の母成峠を超えて会津領内になだれ込んできた。
これを防ぐべく会津母成峠から城下に向かう途中の戸ノ口原に会津藩家老の田中土佐や神保内蔵介が出陣した。
この時、本来は予備隊であった白虎隊・市中2番隊40名も戸ノ口に出陣したのである。
しかし会津隊は防戦むなしく敗れて田中土佐や神保内蔵介は自刃して果てた。
白虎隊士も戦闘で多くの仲間を失いながら飯盛山へと敗走したのは翌朝のことであった。城下の戦いでは「鬼の官兵衛」と敵から恐れられた会津藩家老・佐川官兵衛は主力部隊である朱雀隊の四番士中隊を率いて転戦した。
官兵衛に限らず会津藩士は老若を問わず戦いに、戦い抜いて多くは命を失っていった。
藩士の半数近くを失うという壮絶な戦いであった。
また会津藩は婦女子までもが新政府軍と戦った。
薙力の名手で和歌にも秀いで、美人の誉れ高かった中野竹子という藩士の娘がいた。
竹子は会津娘子隊を組織して、越後口から若松城下に向かう途中の湯川にかかる柳橋で新政府軍と戦った。
この時に被弾した竹子は同じ娘子隊で共に戦った母の手で柳橋の戦いのさなかに介錯されたのである。(妹に介錯されたという説もある)
この様に多くの犠牲を出しながらも持ちこたえた鶴ヶ城はついに慶応4年9月22日に落城する。
戊辰戦争で会津藩士は約3000人が討たれ、自刃した婦女子は233人に上った。
多大な犠牲を払って戦争は終結したのである。

(注.1)鳥羽・伏見の戦いで幕府軍で真っ先に寝返ったのが伊賀・藤堂藩である。
この後「やはり藤堂藩が寝返ったか」と皮肉られたのである。
それというのも伊賀藩祖、藤堂高虎は小身の武士から豊臣秀吉に取り立てられた豊臣恩顧の大名であるが、秀吉没後はいち早く徳川家康に近づき家を守ったのである。
鳥羽・伏見における藤堂藩は藩祖・高虎同様に風見鶏をしたと皮肉られたのである。

(注.2)私たちの日常と言えば、四神に因んだ漢方薬がある。すなわち玄武は「真武湯」、青龍は「大・小青龍湯」、朱孔雀は「十棗湯」、白虎は「白虎湯」である。
それらは今も数千年の時を超えて処方され続けているのである。
このうち「玄武湯」でなく「真武湯」としたのは、かつて中国に玄武帝と諡名された工程がおられたので、それをはばかった為である。
また「十棗湯」はかつて存在したと言われている「朱雀湯」の処方が今日に伝わっておらず、棗(なつめ)を使った「十棗湯」がそれに該当するのではないかと言われているのである。
なお、それらのうちで今日の日本で健康保険が適用されているのは「真武湯」と「小青龍湯」である。

(注.3)戊辰戦争での悲劇は会津藩ばかりではなかった。
二本松藩では12才から17才の少年達からなる隊も編成された。
二本松城の戦いではその中から多くの犠牲者が出た。
当時の数えの12才といえば、今日の満年齢では10才である。新政府軍の中にはさすがにこれを討つのをためらった者もいたといわれる。
福島県二本松市では、今日もそれを讃える式典が年に一度行われ、二本松少年隊としてもその勇姿を伝えている。

平成25年(2013年)9月26日 これを記す。
T.Kanemitsu

本文は「会津のこころ 中村彰彦著」や「新島八重・山本覚馬・新島襄の幕末・明示、吉海直人著」から多くの引用をして、それに筆者の知見を交えて記述した。

 

フグ毒からの生還

私の知人にフグ毒にあたった人がいる。以下はその体験談である。
フグにあたると舌がピリピリするというが、それは間違いだそうである。フグ毒は無味で無刺激性で
何の前ぶれもなく発現する。その人も料理屋でフグ鍋をつついていると突然に座ったままストンと身体が後ろに倒れた。倒れながら「ああ自分はフグにあたったんだ」と思った。倒れたまま身体は全く動かないが、なぜか意識は極めて清明だった。だから周囲で大騒ぎする声はすべて聞こえた。「自分はこのままあの世に行くのだ」と思いながら、不思議なことにそれが全く怖くなかった。身体がポカポカと温かく、むしろ幸福感すら覚えた。
とにかくすごく気持ちがいい。
すぐに救急車が来て病院に運ばれた。集中治療室で周りの医師達が「助かる」とか「いやだめだ」とか勝手な事ばかり言っている。それが全て聞こえるから始末が悪い。やがて治療が効果を奏し、身体が少しずつ動くようになってきた。フグ毒が少しずつさめ出した。そうすると今度はいまままでの何とも言えない幸福感から一転して強烈な恐怖がおそってきた。
「このまま助からないかも知れない」と思うと、全身にびっしょりと冷や汗をかいた。かつて味わった事がないものすごい恐怖だった。やがてフグ毒がさめて、ようやく声が出た。
その人は、それから二度とフグは食べないそうである。フグ毒はテトドロトキシンという神経毒である。呼吸筋をマヒさせて呼吸が止まる。治療は、塩酸ドパミンなどの強心・昇圧剤を静注しながら気管挿管して、フグ毒がさめるまで人口呼吸を行えば助かる(はずである)。

 平成25年8月1日 金光 敏和